リーダー教科書

高校の英文読解(Reader)― 昭和の英語教科書その1

 今回は、当時「リーダー」と呼び習わされていた英文読解の教科書をご紹介します。扱うのは、三省堂から1979~81年に発行されたTHE CROWN ENGLISH READERS1~3です。三省堂は、令和8年版としても、CROWNというタイトルの英語教科書を発行していますから、その前身ということになると思いますが、体裁も内容も全く変わっています。

溢れる「人の名前」

 昭和の教科書をざっと眺めて印象的なのは、とにかく人の名前が沢山出てくるということです。まず、表紙見返しです。三年生用の教科書はMother Gooseの童謡の抜粋になっていますが、一年生用・二年生用では、英語の「名言集」になっていて、例えば次のような「先人の言葉」が掲げられています。
A classic is something that everybody wants to have read and nobody wants to read - Mark Twain
Everything that can be said can be said clearly - Wittgenstein
やはり英語圏の人の言葉が多いですが、上記のヴィトゲンシュタインやルクレティウスやモンテーニュのように非英語話者の言葉を英語に訳したものの幾つか含まれています。

 更に目次です。各章(Lesson)の文章のタイトルの脇に、ほとんどの場合その文章の著者の名前が記されています。目につくところを拾っていくと、Booker T. Washington、Arnold Toynbee(1)、Theodore Dreizer、William Somerset Maugham(2)、Lewis Carol、John D. Rockefeller、J. K. Galbraith(3)といった名前が見当たります。章によっては著者名が記されていないものがあるので、そうしたものは教材用に新たに書き下ろされたのかと思いきや、どうもそうでもないようです。何故なら、目次が右側のページに掲載されている見開きの左のページには全ての章の文章の出典が掲載されているからです。

 この現象が明確に示唆しているのは、当時の教科書が過去に英語で書かれた優れた文章、意義のある文章、学ぶべき示唆が含まれている文章などを掲載して、そうした文章を読み解く力を高校生につけさせようという意図に他なりません。ここには初めから「現在」に対する視座が欠落していて、今現に必要な場面で使える英語という発想は、どこにも見当たりません。その意味で、この時代の英語教育が、知識偏重であり全く実用性に欠けているという批判は、それ自体としては的確だと言えると思います。

 ただ、問題は「実用的な英語」を教えれば、「実際に英語が使える」ようになるかというと、物事はそう単純ではない、ということだと思います。

Key Points

 さて、では各章をもう少し丁寧に見ていきましょう。各章の冒頭の1ページは枠囲みで「Key Points」として、その省の文章の中で注目してもらいたい表現、マスターしてもらいたい表現を挙げています。私が見た限り、最新の三省堂のCROWNでは、注目表現が本文の欄外に配置されているようですが、やっていること自体は基本的には同じです。また、Key Pointsに選ばれている表現も、現在の時点から見てそんなに違和感がある訳ではありません。もちろん、かなり固めのテキストの中から抜いていますので、例文が難しめになるのは避けられませんが、表現としては至ってポピュラーな表現が取り上げられていると思います。幾つか例を挙げてみます。
I’m going fishing!
Dorothy snapped the Lion upon his nose.
I’m sorry if that hurts your feelings.
この辺りは、日常的にも良く使われる表現で、応用がききやすいものだと言えます。一方で、余り日常会話では使わない少し持って回ったような表現も一部確かに選ばれています。例えば下記のようなものです。
Every day, every act, is an island, washed by time and space.
Never could I forget the picture of them sitting there.
They are books that I feel the richer for having read.
Come autumn and winter, nothing can be done.

「実用的」な表現が好まれる昨今では、こんな表現に敢えて注意を喚起することは無いのではないかと思います。では、この種の表現を学ぶことに意味がないかというと、必ずしもそうとは言い切れません。私は、米国に赴任して半年ほど経った頃、米国人から「あなたは随分たくさん本を読んでいるでしょう。」と言われたことがあります。私の使っている英語が、「読書人」的に感じられたという趣旨だったのですが、正直な話、若い頃に何度か英語の本に挑戦して挫折することを繰り返した挙句、その時点で一冊を読み切った英語の本などありませんでした。もし、それでも私の英語が「読書人」的に感じられたとしたら、自分が受けて来たこの種の英語教育の賜物としか思えません。

古い英語教育に対する当面の評価

 ここまでご紹介しただけでも、高校の英文読解(Reader)が、実用的な言語能力として英語を使えるようになることよりも、英語によって蓄積されてきた文化の一端に触れ、理解しようとすることに重きが置かれていたことは明確に理解されると思います。現時点で考えると、このような教科「英語」のあり方については、実用性の観点からの批判の他に別の観点からの批判が可能だと思います。

 このように、言語を通した文化の理解に重点を置くのであれば、何故その言語が英語でなければならないのか、ということが問題になります。勿論、中学校の段階から順に勉強してきているので、他の選択肢がないとは言えるのですが、そうであれば、もっと早い段階から外国語を選択式にして、それぞれの生徒が関心のある言語文化を学べるようにすることが選択肢になるはずです。

 実は当時も、この批判に対する答えは、「英語は実質的に世界共通言語だから」だったと思います。こういう説明をしてしまう時点で「世界で通用する」という「実用面」に頼ってしまっており、実はこの時代の「知識偏重・読解偏重」も不徹底だったと言えるのではないかと思います。これは推測の域を出ませんが、当時の英語教師を始めとする英語教育に関わった人たちも、英語恐育の目的は「きちんとした英語が実際に使えるようになることだ」と考えていたと思います。だからこそ、「使える英語」への強い流れが起きた時に、従来の「知識偏重」型英語教育の側から真剣な批判が起きることなく、従ってそれまでの教育が達成してきたことが顧みられることもなく、一つの方向に押し流されてしまったのではないか、という問題意識を当面の評価としておきたいと思います。

 なお、教科書の各章の最後にはExercisesとして練習問題がついています。テキストの内容について英語で問う問題、穴埋めや言い換えのような文法問題、内容に関係した和文英訳、という構成になっているのですが、実はCompositionの教科書も同じ形式を採用しているので、問題や例文の特徴などはそちらでご紹介したいと思います。


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