どっちのミラン?
日韓ワールドカップ(2002年)の頃の話ですから、今から約四半世紀前、まだ自分は英語ができないものと信じていた時のことです。当時は日韓ワールドカップの影響でサッカーに関する情報が増え、海外サッカーに関心を持つ人も多くなったのですが、私もそんなにわかサッカーファンの一人でした。ある時、英字新聞の記者をやっていた友人と偶々海外サッカーの話になって、応援しているチームを聞かれたので、「特にないけどよく見ているのはミランかな」と答えたら、「え、どっちの」という反応が返ってきました。
ご存じない方のために解説しておくと、イタリアのミラノには世界的に有名なサッカークラブが2つあって、一方はイタリア語で「FC Internazionale Milano」の名がついた通称「インテル」、もう一方は英語で「AC(Athletic Club) Milan」の名がついた通称「ミラン」です。日本では原音に近い読みを採用するのが原則ですから、インテルは「インテル・ミラノ」などとイタリア語読みで表記され、ミランは「ACミラン」と英語読みで表記されます。従って通常は「ミラン」と言えば「ACミラン」のことを指すのが日本では常識なのですが、英字新聞の記者は、原則すべての情報を英語で取っており、英語では当然のように「インテル」も英語表記で「Inter Milan」と書かれますから、当人にしてみれば、「どっちのミラン?」というのは自然な反応だったのです。
地名もなかなか厄介な存在
ミラノに限らず、英語名称と現地語名称が乖離している例は枚挙に暇がなく、近隣の地中海沿岸でもNaples(ネイプルズ)がナポリ、Athens(アセンズ)がアテネ、Cyprus(サイプラス)がキプロスだと、一回聞いてすんなり理解できる日本人は少ないのではないでしょうか。更に面倒なのはジェノヴァです。英語では「Genoa」になるのですが、元祖イタリア語では「Genova」で、スイスのジュネーブ「Geneva」と、発音のみならず文字表記を見ても区別するのが困難です。
私自身の経験として、米国から帰ってきた後でしたが、文章中に「Cologne」という地名が出て来て頭を捻ったことがあります。というのも、このスペルが実にフランス語的なので、フランスにこんな町があっただろうかと考え込んでしまったからなのですが、辞書を引いてこれがドイツの「ケルン」だと知った時には、何だか騙された気持ちになりました。ドイツも厄介な地名が多く、「Munich」(ミューニック)と言われて、すぐ頭に「ミュンヘン」が浮かぶ人は少ないでしょうし、比較的わかり易い「フランクフルト」(Frankfurt)も、「フランファー」と2音節で発音されると聞き取るのが難しいと思います。
地名の場合、ある言語でつけられた地名が別の言語で読まれるようになるという現象があるのも悩ましいところです。米国の南部には、スペイン語の地名が多いことは知られていて、Los AngelesやSan Diego、San Fransiscoなどは違和感なく英語に溶け込んでいますが、「Albuquerque」というスペルを見せられて、なまじっかスペイン語ができる人なら、「アルバカーキ」という地名に思い当たるまでに数秒かかるのではないでしょうか。
更に、人名と同様に絶望的に難しいのが中国の地名です。省の名前として、「Guangdong」、「Fujian」、「Sichuan」がどこだか分りますか?これらを「広東」、「福建」、「四川」と漢字変換するのは、余程慣れていないと難しいでしょう。こういう例を見ると、やはり表意文字の世界に住んでいる私たちは、音よりも漢字の字面で地名を覚えていることを痛感させられます。
歴史的な地名の問題
更に現代の地名だけでなく、歴史的な地名が絡んできます。英語で「カーテジー」という音だけ聞いて、何の話をしているか理解できますか。「Carthage」というスペルを書くと少し見当がついてくると思いますが、これが「カルタゴ」だと気づくのは、かなり話が先へ進んでからになるかもしれません。その話の方ですが、地名ではありませんが「Punic War」という言葉を見たり聞いたりしたら、どんな大混乱をもたらした戦争かと思われるでしょう。知らなければこれが「ポエニ戦争」だとは思い至らないでしょう。詳しくは説明しませんが、この「Punic」はカルタゴ人を指す言葉で「フェニキア」という言葉から音韻変化して発生したものです。
エトルリアについてはご存知でない方が多いかもしれません。ローマに少し先行する形でイタリア半島に表れた古代文明で、実はローマより先にギリシャ文化を吸収した先進民族でもあります。このエトルリア、地名は「Etruria」で難しくはないのですが、「エトルリア人」は「Etruscan」で、ちょっと違和感があります。そして実はこの「Etruscan」こそ現在の「Tuscany」(トスカナ地方)の語源なのです。ここまで来ると、元の「Etruria」は全く原形を留めていません。
地名への対処の仕方
人名の場合以上に、地名にはこれと言った効率的な対処の仕方がありません。基本的には、個別に覚えるしかありません。ただ、最後にご紹介した「エトルリア」と「トスカナ地方」などが良い例だと思いますが、土地の名前には、往々にしてその地域の歴史が刻み込まれているので、丁寧にひも解いてみると意外に面白い発見があったりします。「語学」だと思うとただただ面倒なだけに思えるかもしれませんが、自分の知的好奇心を刺激し、教養を高めてくれる存在だと考えれば、実に豊かな知識の泉に見えてくるかもしれません。
もちろん、語学の学習に当たって、必要なことを効率的に習得する努力が必要なことは言うまでもありません。でも、効率一辺倒のトレーニングは身につきません。「楽しみ」を見つけるということ、面白いことを探求することが、回り道のように見えて却って効果を発揮することもあります。恐らく地名などは、「楽しむことが一番の近道」に属する典型的な分野ではないかと思います。

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