AIが語学を不要にするという説が間違いであるのと同様、グローバリゼーションが英語を誰にとっても必須にするという説も間違いだと思います。ここでは、こちらの説に対する反論を試みます。余りに大げさな話だと思われるかもしれませんが、できるだけ分かりやすく説明しますので、ついて来てみてください。
グローバリゼーションと人文学
グローバリゼーションの進展に伴って、人文系の学問が存在意義を問われる、或いはグローバリゼーションの要請に適うように再編を求められるという現象は、日本に限らず全世界で観察されます。悪い言い方をすれば、何の役に立つのか分からない大昔の文献や浮世離れした思想に現を抜かす暇があったら、現代のグローバル人材の育成に少しでも貢献できるように努力しろ、ということなのでしょう。
しかし、考えてみれば哲学をその代表とする人文学は、常に世界に対するより良い理解と普遍的に妥当する価値を求める存在でした。そうであるが故に異なる世界観・価値観を持つ異文化との遭遇は、常にその普遍性に対する動揺を与え、そのことによって人文学の世界をより豊かにしてきたのがこれまでの歴史でした。そうだとすれば、現在進行しているグローバリゼーションが、人文学を豊かにするよりも、その見直しを迫る方向に働いているとしたら、このグローバリゼーションは人類の歴史で普遍的に発生してきた「異文化間の遭遇」とは、性格を異にしたものだと見るべきでしょう。
グローバリゼーションの性格
そういう目で現状を眺めると、グローバリゼーションを担っている人々が、大企業関係者、学者、ジャーナリスト、政治家などかなり限られた階層に集中し、しかも驚くほど似たような価値観・世界観を持っていることが見て取れます。つまり、現在進行しているグローバリゼーションは、異文化間の遭遇ではなく、全世界から極めて同質的な価値観とバックグラウンドを持った人たちが集まって、人類社会の中に「グローバル社会」という特殊な部分社会を作っているという現象だと理解できることになります。
「誰もが」英語を必須とするわけではない
部分社会ではありますが、そこに世界のリーダー達が参加して強力なエリート層を形成していますから、そこに参加することには大きなメリットがあり、参加しようと思ったら、英語は必須です。ただ、あくまで部分社会に過ぎない以上、参加する人はごく一部です。それが、グローバリゼーションによって、「誰もが」英語を必須とすることにならない理由です。お断りしておきますが、ここで述べたのは政治的な賛否ではなく、グローバリゼーションという現象の“構造的理解”です。
英語を学ぶことには価値がある
しかし、皮肉なことに私がこういう理解に達することができたのは、日常的に英語を使うようになって、英語で世界の情報を入手することができるようになった結果なのです。グローバリゼーションによって英語が必須になることはありませんが、このグローバリゼーションという現象をきちんと理解しようとしたら、英語による情報獲得が不可欠です。結論として、「誰でも英語ができるようにならなければならない」というプレッシャーを感じる必要はありませんが、それでも、英語を習得することには依然として、いや、いつの時代にもまして、世界を理解し自分の視野を広げる上で、大きな意味があるのです。
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