保守的米国人の宗教的発言
米国人の発言を聞いていると、突然話の流れからは予測しなかったような信仰の話が出てきて驚くことがあります。私が実際に見聞した例では、トランプ大統領の弁護団を務めていたある女性弁護士が、「方々から心無い非難の言葉を浴びせられて、困って居るんじゃないですか?」と問われて、「はい。確かに沢山の敵意に満ちた言葉を受けています。」と答えた上で、次のように続けたのです。
But the only word that matters to me is what our Lord Jesus Christ told me.(でも私にとって重要な言葉は、主イエス・キリストが私に告げた言葉だけです。)
また、別の若い女性が乳がんの手術を受けた時に、
「Thanks to my husband, my mother, and the Lord Jesus Christ, who stayed with me through the night, (夫と母と主イエス・キリストが一晩中私に寄り添ってくれたおかげで)」
無事乗り越えることができたと語っているのを聞いたことがあります。前者は弁護士、後者はハーバードを出てオクスフォードの大学院に留学した才媛中の才媛の発言ですから、最高度に知的な米国人がこういうことを口にするということです。もちろん、二人とも明確にコンサーバティブに属します。
全ての米国人がこういう感覚でいる訳ではありません。しかし、キリスト教徒でない日本人には直観的に理解しにくいのですが、保守的な米国人にとって、そして世界中の非常に多くのキリスト教徒にとって、これが当たり前の発想であり、当たり前の物言いであることは、知っておくべきだと思います。そして、アメリカン・コンサーバティブのものの考え方の根底にこうした信仰心・宗教意識が横たわっていることは理解しておいた方が良いと思います。
コンサーバティブにとっての「政教分離」
更に、彼らは、公式の場所で信仰を表明し、祈りを捧げ、信徒として行動することは、基本的に望ましいこと、あるべきことと考えています。
実際、私が参加した自治体関係者の会合でも、保守色の強い団体では、ランチタイムの前に全員で「主の祈り」を唱えていました。(私自身は仏教徒であるからというよりも、さすがに英語で「主の祈り」を覚えていなかったために参加しませんでしたが。)また、今年(2026年)になって、米国で夜通し一節ずつ交代で聖書を朗読する会がオンラインで開催され、多くの共和党の国会議員とともにトランプ大統領も参加し、ホワイトハウスの執務室のデスクで聖書の一節を読み上げるという一幕がありました。
日本人の感覚では、自治体関係者の会合で短時間ながら祈祷の時間が設けられたり、現職の大統領が執務室から宗教関連行事に参加するなどあり得ないし、あったら大問題になるところですが、アメリカン・コンサーバティブにとっては、むしろ望ましいことなのです。そうなると「政教分離」の原則はどうなったのか、と聞きたくなりますが、実は「合衆国憲法は政教分離を定めていない」、「米国は政教分離を統治の原則としていない」というのが多くのコンサーバティブの認識なのです。
政教分離というのは、せいぜい教会と政府は違うものだという当たり前のことを表す言葉である一方、教会と政府は目的を共有しており、お互いに協力しながら社会のために働かなければならないと多くのコンサーバティブが考えています。別のところで書いたように、アメリカン・コンサーバティブは社会課題の解決を「政府」に委ねることに基本的に反対で、まずは家族・地域・友人の相互扶助、しかる後には教会や慈善団体が解決に当たるべきだと考えます。そうであれば、教会と政府が同じ目的を共有していると考えることは、むしろ自然なことなのです。
リベラル側の宗教観
一方、リベラル側には「政教分離」を重要な統治の原則と考え、その厳格な運用を求める人が多く、些末な話としては、コンサーバティブの高官が十字架を身につけて公の席に現れることに苦言を呈したりするのも、よく見られる光景です。もちろん、リベラルの側にも敬虔なクリスチャンはたくさんいるのですが、方向性や程度の違いはあれ、何らかの意味で「政教分離」が必要だと考える点では、概ね一致しているように見えます。
また、リベラルの中には宗教自体をどこか前近代的なもの、無知の表れと捉えたり、危険視したりする無神論者や世俗主義者も少なからず混ざっています。また、キリスト教が世界史そして米国史の中で果たしてきた抑圧的な役割を重視する人も多いです。そして、その種のリベラルの人たちは「声が大きい」ので、リベラルというとみんながそう考えているように思いがちですが、私の見る限り、リベラルの全体を代表している訳ではないように思えます。
ただ、当然のことながら世俗主義的リベラルに対して、コンサーバティブ側は拒否反応を示しており、事件として表面化することはそう多くありませんが、「政教分離」がリベラルとコンサーバティブのベーシックな対立軸になっていることは間違いありません。
自由社会と信仰
コンサーバティブの発想として、もう一つ言及しておくべきことがあります。アメリカン・コンサーバティブに取って信仰は、自由な社会に不可欠なものなのです。なぜなら、自由な社会が成り立つためには、国民の道徳性(Virtue)が確立されている必要があり、国民のVirtueは正に信仰(Faith)によって形成されるからです。だからこそ、「信仰の自由」は絶対に侵されてはならないという形で話は「自由」に戻ってきます。逆回りでは、信仰の自由が保障され、信仰によってVirtueを涵養された国民こそが、自由社会を支えることができる、と言うことができます。この自由(Freedom)、信仰(Faith)、道徳性(Virtue)のことをアメリカン・コンサーバティブは「Golden triangle of Freedom」(自由の黄金三角形)と呼び、米国はその基盤の上に自由の国として設立され、自由な国であり続けるためには、常にこのGolden triangleが必要なのだと考えているのです。
日本が明治維新と戦後改革という2回もの「歴史的断絶」を経験するというかなり特殊な近代化の過程を辿ったせいで、我々が江戸時代を遠い昔のように感じるのとは違って、米国の歴史は、勿論大きな社会の変動を伴いながらも、18世紀の建国から現在まで基本的に断絶はありません。そのため、米国人は昔ながらの感覚をより強く保持しているとは言え、これもその例の一つだと思います。
アメリカンコンサーバティブ
コンサーバティブを知る必要性
その1小さな政府
その3コンサーバティブ・ウーマン
その4資本主義と市場
その5妊娠中絶問題の前提
その6プロライフ(妊娠中絶反対派)の思想

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