これから2回にわたって「妊娠中絶」(abortion)をめぐる米国の議論についてご説明したいと思います。これは、アメリカン・コンサーバティブをめぐる数々の問題の中でも、日本で最も誤解されているものだと思っています。今回は、コンサーバティブの思想や意見をご紹介するための前提として、知っておくべき前提についてお話ししたいと思います。
プロライフとプロチョイス
まず用語の問題です。妊娠中絶は原則的には殺人行為に属すると捉え、禁止されるべきだと考える人たちのことを「プロライフ(Pro-Life)」と呼びます。また、妊娠中絶は女性が自分自身の身体に対して有する権利(自己決定権)として認められるべきだと考える人たちのことを「プロチョイス(Pro-Choice)」と呼びます。大まかに言えば、コンサーバティブは概ねプロライフであり、リベラルはプロチョイスだと一応は言えます。
ここからは私の観察になるので割り引いて聞いていただきたいのですが、とは言え私の見るところ、米国人の多くは、例えどちらかの立場に共感を示していたとしても、この問題には余り関わりたくない、できれば避けて通りたいと考えているのではないかと思われます。そして、明確にどちらかの分類に属している人も、多くは「穏健派」のように思われます。どういうことかと言うと、プロライフの中の多くは、原則として妊娠中絶は禁止するべきだと考える一方、例外的にやむを得ないケースが存在することを認めていますし、プロチョイスの多くは、女性の権利だと主張する一方、妊娠週数や理由などにつて制約を設けることに反対しません。つまり、真ん中の「関わりたくない派」、プロライフの「例外付き禁止派」、プロチョイスの「制約付き権利派」を合わせると米国人の大半がこの分類に属すると思われるのです。
もちろんどちらの側にも「過激派」は存在します。妊娠の経緯や養育可能性などを含め、いかなる事情があろうと中絶はすべきではないと考えるプロライフの「絶対的禁止派」も、特別な事情がなくやっぱり生むのが嫌になったからと臨月の胎児を処分することを含め、いかなる中絶も例外なく権利として認められるべきだと考えるプロチョイスの「絶対的権利派」も、間違いなく存在しますが、彼らは決してそれぞれのサイドでの多数派ではありません。
制度の実態
次に、妊娠中絶をめぐる現在の制度や取扱いがどうなっているのかをきちんと理解しておくことが、議論の前提として不可欠です。そして、当然のことながら、米国の問題について論じる前に、自分たちの国の制度がどうなっているのかをきちんと押さえておかなくてはいけません。というのも、あたかも日本で妊娠中絶が権利として認められているかのような前提で、米国の中絶問題を論じている文章をしばしば目にするからです。日本の法律では、妊娠中絶は明確に禁止されており、刑法には「堕胎罪」という犯罪が規定されています。あくまでやむを得ない場合に限り、母体保護法によって例外的に認められるという扱いになっているのですが、実際問題として承認のハードルが低くて認められないケースがほとんどないため、禁止されていないかのような誤解を生んでいるに過ぎません。
従って、日本の制度は米国で言えばプロライフの穏健派・「例外付き禁止派」の主張に最も近く、穏健派であってもプロチョイスは、日本の現行制度では認められていない権利性を要求する点で、より強い主張をしていると考える必要があります。従って私としては、日本人が米国のプロチョイスの主張に賛同するのであれば、日本の現行制度をどのように評価するかが問われざるを得ないと思っています。
さて、当の米国の制度ですが、2024年度現在州によって制度は違いますが、妊娠中絶を原則禁止している州でも、全く例外を設けていないところはありません。「生命の危機」以外の例外を認めないという一番厳しい規定を設けている州も4州に留まります。逆に中絶を原則禁止していない州でも、妊娠週数制限を設けていない州は8州と少数派です。つまり、どちらの原則を採用するにしても、穏健派の主張に近い制度(例外付き禁止または制約付き権利)にしている州の方がずっと多いというのが現状なのです。
もちろん、制度と実際の運用とは必ずしも同じではありません。実質的に制度以上に厳しい運用になっているところも、制度以上に緩い運用になっている所もありますし、時とともに運用が変わることもあります。ただ、そのことと制度上の原則論とは区別して論じるべきだと思います。
Roe vs Wade判決の影響
1973年に米国連邦最高裁が出したRoe vs Wade事件判決(以下RvW判決と略します。)は、妊娠中絶が合衆国憲法の定める権利であることを明確に認めました。(ただし、妊娠を三段階に分け、初期の中絶を広く認め、中期は規制可能、後期は禁止可能とする「三段階方式」を採用しています。)この判決は、長年の対立に決着を付けるものとして歓迎する人もある一方、「プライバシー権」を根拠に妊娠中絶の権利性を認めるというややアクロバティックな論理を採用したこともあって、多くの疑問や批判の対象ともなりました。この時期、ちょうど60年代から70年代にかけて、公民権運動、ウーマンリブ、ベトナム反戦運動などが大きな盛り上がりを見せていたこともあって、連邦最高裁が「時流を読む」形で勇み足気味の判決を出したのではないか、というのが両方の側から推測として語られています。
しかし、この判決が結果的に、問題に決着を付けるどころか逆に深刻化させ、米国社会に根深い分断を持ち込む結果になったことは、その後の経過から明らかだと思います。まず、判決が権利性を認めたことで、プロチョイスの関心がやや低下する一方、プロライフの強い反発と危機感を誘発し、その運動を活発化させるになりました。しかし、そのことよりも罪深いのは、プロライフとプロチョイスの間に線を引いてしまったことです。つまり、両サイドの過激派をとりあえず脇に置いて、穏健派や中間派の間で妥協点を探って玉虫色の解決を図る道が、この判決によって完全に閉ざされてしまったのです。しかも、誰もが「中絶は権利か犯罪か」という極端な二元論の間で立場を明確にすることを求められ、曖昧な態度でいることが許されないような風潮が生まれたため、リベラルにとってもコンサーバティブにとっても「踏み絵」として機能する結果にもなりました。こうなると、双方の穏健派同士の間で対話が成り立たず、同じサイドの穏健派と過激派が接近することによって、ますます分断が深まっていきます。
ドッブズ事件判決
2022年にRvW判決を覆した連邦最高裁判決がドッブズ事件(Dobbs vs Jackson Women’s Health Organization)判決です。この判決の趣旨についても誤解がありますので、まずこの点を明らかにしておきたいと思います。日本では、「妊娠中絶の権利性を否定した」判決として紹介される傾向がありますが、厳密に言えば、この判決は妊娠中絶が権利であるかについては、基本的に何も述べていません。この判決の趣旨はあくまでも「妊娠中絶の問題は連邦の管轄事項ではない」ということです。
米国のフェデラリズムの原則では、連邦は主権国家である州から負託された事項だけを管轄し、その事項についてのみ権限を有する一方、州からの明確な負託のない事項については、本来の主権国家である州に権限が留保されることになっています。ドッブズ判決は、合衆国憲法をはじめとする現行法体系において、妊娠中絶に関して、州から連邦への明確な負託があるとは認められないと判示し、連邦裁判所としては「判断をしない」という判断をしたのです。
米国では、明確にコンサーバティブが多数派を占める州をRed State(赤い州)と呼び、明確にリベラルが多数派を占める州をBlue State(青い州)と呼びますが、ドッブズ判決を受け、Red Stateでは妊娠中絶の禁止の明確化、例外用件の厳格化に向けた動きが強まる一方、Blue Stateでは逆に中絶の権利を明確化する方向に進んでいます。その結果が先ほどご紹介した制度の現状ですから、全般的に見て極端な方向に進んだ州は決して多くなく、多数を占める穏健派の意向に沿う形で制度化されているところが多いと言って良いと思います。
さて、以上で米国の妊娠中絶問題に関する公平な議論の土台ができたと思います。次回は、上記の認識を前提にして、コンサーバティブ或いはプロライフの議論、特に、日本ではほぼ全く理解されていないと思われる「過激派=絶対禁止派」の思想をご紹介したいと思います。
アメリカンコンサーバティブ
コンサーバティブを知る必要性
その1小さな政府
その2政教分離
その3コンサーバティブ・ウーマン
その4資本主義と市場
その6プロライフ(妊娠中絶反対派)の思想

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